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初代管長(教祖) 芳村正秉

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初代管長(教祖) 芳村正秉

1839年(天保10年)9月19日岡山県に生まれる
(明治2年)神祇官に入官する
(明治6年)皇大神宮に奉職し、出納課長、常務課長を歴任し、後に筆頭禰宜となる
(明治9年)東京出張所所長となる
(明治13年)神習教を設立、初代管長に就任。
1915年( 大正4年)1月21日死去

略歴

医師芳村泰治の二男として美作国上福田(現在の岡山県真庭市蒜山上福田)に生まれる。

6歳の誕生日に祖母に連れられて鎮守に参拝すると「芳村氏は大中臣の後裔にして、神道の家系に属し、異日千載不伝の神道を継ぎ、これを天下に明らかにすべし」との神託を祖母が受ける。

11歳の時、儒学者山田方谷を訪ね弟子入りを乞うが、親に行先を告げずに出てきたことを理由に諭され上福田に帰される。
翌年、両親の許しを得て新見藩藩儒丸川松隠(山田方谷の師)の孫丸川義三につき3年に亘って国学・漢学、そして槍術・剣術ほかを学び、その後に播磨国林田藩の河野鉄兜に入門し詩文・経史を学び、同時に国書、和歌を習う。

安政4年京都に上り梁川星巌、紅蘭と親しく交流しながら伊藤仁斎の古学を学び、春日潜庵、藤井竹外、頼支峰、家里松嶹、江馬天江(正人)、山田梅東、板倉槐堂、山中静逸、宇田栗園、頼三樹三郎、月照上人らと交わり、これらを師として多くを学ぶ。

安政5年(1858年)になり、安政の大獄が始まり、正秉の元にも幕府の追手が及んだため、鞍馬山の由岐神社の拝殿に身を隠して油屋の主人湯口徳兵衛の助けを得て生き延びる。
この時、6歳の時の託宣を受けた光景が突如として眼前に浮かび、自分の使命が神道家を目指すことであると悟る。

清水千代子と結婚。

維新後、西郷隆盛、伊藤博文や林鶴梁、安井息軒らの勧めにより明治2年(1869年)に神祇官に勤めるようになる。

1873年(明治6年)、神仏合同布教の大教院の設立の際に強く反対したが受け入れられず、職を辞して皇大神宮に禰宜として奉職。
大教院の解散を予見し、日比谷の神宮司庁東京出張所内に神道事務局を設置するために尽力。大教院の瓦解と同時に神道関係者は神道事務局に移り離散を免れた。
神宮では祭主近衛忠房、本荘宗秀等と京都、大阪、福井、新潟を中心に神道の布教伝道を行い神宮教会、説教所である神風講社の設立に尽力。出納課長、常務課長を歴任し、特に祭主久邇宮朝彦親王と大宮司田中頼庸と相談しながら、当時数十万円と莫大だった神宮の債務を3か年の計画を立てて償却した。

神宮司庁東京出張所を設立し1876年(明治9年)6月より所長となり東京詰めとなる。

明治13年9月2日、龍田神社宮司の辞令が下り神宮から転出。しかし、神官と教導職の分離令の発令を予知し、着任せずに東京に残る。

明治13年12月、神習教会を設立する。

明治14年中山慶子様のご依頼によって三百日間にわたる大正天皇の健康祈願を行う。

明治15年御嶽山、富士山、那須山、吾妻山ほかで山岳修行を行う。

1883年(明治16年)9月16日、御嶽山の王滝口と黒沢口の社家に許可を得て御嶽三神(国常立尊、大己貴命、少彦名命)を神殿に合祀する。

1891年(明治24年)のアメリカの天文学者パーシヴァル・ローウェルが来日した際には、外務大臣陸奥宗光によって正秉が紹介され、敬虔なキリスト教徒だったローウェルに神道を教えている。

1893年(明治26年)のローウェル二度目の来日の際には、正秉の手配により内務省阿部社寺局長の添書きを携えて伊勢神宮へ赴き、正式参拝を行い外国人として初めて太々神楽を奉納している。

1893年にアメリカのボストンで行われた万国宗教者会議開催に際して評議員に任命されるが、物忌みを理由に参加は辞退。

千代子が38歳の若さで死去した後に、坊城俊政参議の娘で未亡人となった録子と再婚。

1915年(大正4年)1月21日に正秉は75歳で死去(従六位)。
ご祭神から受けた神託を遺言として奉じ教庁・神殿を東京府荏原郡駒沢村に移す。そして関東大震災・大東亜戦争では被災を免れた。

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